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四国八十八ヶ所お遍路の旅
前神直樹(76014)
2021年3月末日をもって会社生活が終了、第三の人生の始まりを迎えて何をやるか、候補の一つは四国の歩きお遍路だった。インターネットによると全国で500人くらいの人が前神姓を持つらしいがその半分以上は愛媛県在住のようで、そうなるとこの姓は六十四番札所となる愛媛県の前神寺に関係しているように思えた。一度お遍路としてこの寺を訪問してみるのも面白いのではないか、と思っていたところに、昔の取引先の人が一昨年秋に歩きで全八十八札所を巡ったと聞き俄然歩けるのではないかと思い始めた。総歩行距離約1200kmの数字にはちょっと怖気付いたが、平地を歩くだけの遍路なら何とか出来るのではないか、だめなら途中で帰ってくればいいだけと割り切り、昨年10月19日「スタンプラリーと間違えないでね」との揶揄めいた言葉に送られて羽田から徳島に飛んだ。
最初の一日半で11番札所まで歩けたとき、八十八番札所の香川県大窪寺まで大したことはないのではないか、とちょっと甘く見て三日目50km以上を歩いたが、翌日筋肉痛を起こしてしまった。どう考えても1ヶ月以上はかかる長旅なので徒に飛ばすのは厳禁、周りの意見も聞いて一日の歩行は最長35㎞に抑えるようにした。マラソンのトップ選手であれば2時間以内で走れるだろうが、歩くとなるとこの距離は想像以上に長い。その長さをつくづく感じたのは室戸岬までの道だった。徳島最後の薬王寺から高知県最初の室戸岬にある最御崎寺までが75㎞、途中民宿に二泊してやっと辿り着ける距離だった。道は国道55号線に沿って太平洋の荒波を見ながら延々と南西に向けて歩くのだが景色は単調で、行けども行けども気が紛れるようなものは何も出て来ない。退屈さを紛らわせるために般若心経をプラスティックケースに入れてそれを見ながら歩いてみたが、そもそも般若心経が超哲学的で意味が解らず容易なことでは覚えられない。ただつくづく思うのは,空海は本当にこんなところを歩いたのだろうか、と言うもの。今だから舗装された歩道をちゃんとした運動靴で歩いているが、平安時代にはこの荒波の波打ち際を岩に足を取られながら、わらじで歩くのだから想像を絶する。 室戸岬への道と同様、足摺岬へも最後の札所から80kmもの距離がある。ただ足摺岬への道は室戸岬の道と比べるとはるかに多彩で単調一辺倒ということはない。町もあるし気の利いたリゾートもある。足摺岬まであと約18kmのところに大岐の浜なるところがあり、ここの宿で聞いたのは、西武グループの堤義明が三度も自家用ヘリで大岐に降り立った話だった。サーフィンの国際大会を何度か開催した大岐に惚れ込んだ西武は同地に一大リゾート建設を計画、自治体である土佐清水市もこれに賛同、しかし最終となる住民投票でこの計画は否決されてしまった。今の大岐は昔建てられたリゾートマンションが一つ寂しく残っているだけの殺伐とした感じがするが、もし西武のリゾート計画が実現していればどうなっただろうか。この計画は20年以上も前の話で、もし実現されていたとしてもその見込み通りのものになったかははなはだ疑問。しかしこのような話が過去あったわけで足摺への道は室戸に向かう道とは違って興味のある話や多彩な景色にあまり退屈することはなかった。
長々歩いた道で一番いいなあと感じたのは、高知から愛媛県境を越えて宇和島、大洲、内子、久万高原、松山に至るいくつもの峠を越える江戸時代から続く古道を歩いた時だった。その間6日ほどの日数が掛かったが距離的には圧倒的に自動車路が多い。その中に山道そのものと言えるような古道が自動車路に挟まれるように出てくる。こうした古道で人に出会ったことは一度も無く、遍路道という標識が無ければ土地勘も無いだけに不安で堪らなくなるような道だったが、川で餌を狙っているサギや、紅葉真っ盛りを見ていると気も休まる。内子を経て久万高原に上がる途中に大瀬という僻地も僻地というような集落がある。ここの小学校校舎が非常にあか抜けていて、そんじょそこらの箱もの校舎とは明らかに違う佇まいを見せている。そのことを地元の人に話したところ、この校舎は大江健三郎が知り合いの建築家に頼んで設計してもらった由。曰く、「大江健三郎はこの大瀬の出身で高校は内子高校に進学したが、その神童ぶりに驚いた教師が松山東高校への転入を強く勧め、その後東大に入学して文学者になったんよ」と。この大瀬から遍路道は小田川という河川に沿って上がってゆくが、これが清流そのものでおそらく盛夏には大江少年も泳いだんだろうと勝手に想像した。
高知から愛媛に抜ける遍路道の途中で一人の老人遍路に追いついた。話すと御年86歳、今回で四国遍路27周目という猛者ともいえるような御仁だった。60歳で会社勤めも終わり遍路を始めたそうだが、一番札所から順々に歩く順打ちをすると、翌年八十八から逆に回る逆打ちをやってそれを毎年繰り返しているとかで、自分のような遍路一回目の人間には想像を絶する話だった。歩くスピードも老人を感じさせず、昔は相当山登りをやっていたらしい。この人とはこの後4回札所や道で出会うことになったので、ほぼ同じペースで歩いたことになるが、一旦一緒になると地図を見なくてもマニアックな遍路道を教えてくれるのでずいぶん時間セーブにもなった。またどこどこのうどん屋は旨いとか、お薦めの遍路宿も教えてくれる。札所の寺に着くと納経するのだがその仕草も堂に入ったもので、般若心経を唱える様子はプロのお坊さんと変わらない。般若心経を読んでもしどろもどろになるこちらとはえらい違いだった。
この人曰くお遍路は松山に出るとそのあとは早いよ、とのことで確かに松山市内では一日に八つもの札所を巡ることになって、この分だと最後の結願もできそうだと強く思えるようになった。松山からは今治までほぼ丸一日かけて歩くことになるがこの道も印象深かった。会社勤めの時には同じルートを百回以上は往復したと思うがすべて鉄道か車での通過だった。そこを徒歩でゆくことがあるなど想像もしなかったが、じっくりと風景を見ているとどことなくほっとする。室戸岬に向かう苦行の道に比べるとこの松山、今治ルートは瀬戸内海沿いであるが故に、波もほとんどなく点在する島の光景は瀬戸内国立公園の名に恥じない。
一昔前、この海を大分から加古川までの製鉄所視察のために渡ったブラジル・リオドセの人間が「来日する前日本は小さな国と聞いていたがそんなことはない、現にこんな立派な河があるじゃないか」と言ったとか。島が点在するこの海を見て河と思うのもすごい感覚だが、まだ自分は見たこともないアマゾン川は恐ろしいほど広大なんだとつくづく思う。
香川県に入って印象深かったのはお接待だった。江戸時代から続く古い遍路道を辿った時、途中にいくつかのコンテナを重ねた休憩所があり、コンテナの中は清涼飲料水で自由に飲んで下さい、とある。自動車が入れないここまでコンテナを背中に背負ってもって来る人がいるわけで頭が下がる。小屋風の休憩所では冷蔵庫があってここでも中の飲み物は自由に飲める。観音寺市を歩いていた時、「お遍路さん、お遍路さん」と呼び止められ、差し出されたのは大きなおはぎが二つ、「この頃はコロナもあって歩く人がおらん、待っとんたんよ」と。高知の道を歩いていた時農作業をしていた人に声を掛けられて千円札を出された時にはびっくり。いくら何でも現金は受け取れませんと固辞したが、「これはお大師様の功徳だと思ってください」と言われありがたく押し頂く。学校行事としてお遍路接待をしている高校生にも出会ったが、このお接待文化こそは遍路を支える一つの大きな要素であることは間違いない。
八十八番札所・大窪寺に到着したのは徳島の一番札所から数えて37日目のことだったが、各寺を回ってみてつくづく思うのは、空海という人間は余程強い体力と気力を持ち合わせていたんだろうなというもの。なんでここまで高いところに寺があるのと思ったことは数知れず、嘘か真か、空海が修行したと伝えられているところは断崖絶壁のようなところも多くて、空海自身は強烈なマゾヒストだったのではないだろうか。最後まで意味の解らなかった般若心経は暗記出来ないままに終わったが、これを合唱するがごとく唱える遍路の集団に出くわした時には隣で聞き惚れてしまった。日本版「天使にラブ・ソングを」というのは大袈裟だが。
11月24日最後の大窪寺を打ち終わると、もうそこからは大手を振って使える交通機関で一目散に高松に出たが、丸二日歩き詰めだった距離をわずか2時間ほどで戻ってしまったことには一抹の寂しさを感じた。ともあれ無事最後まで歩き通してくれたジョギングシューズに感謝をしつつ、高松駅で食堂に駆け込んだ。